アニメと現実の境 映画「名探偵ピカチュウ」所感

※以下公開当初の感想をそのまま引っ張り出してきたものになります。所々お口が悪い。

 

++++++

 

名探偵ピカチュウ、予告でミュウツーが出るのは知ってたけれど、まさか逆襲のミュウツーと接続してくるとは思わなくて号泣した。この映画はポケモンGOの延長でもあるんですよね。

まずポケGOでこの現実世界にポケモンを存在させたのはすごいことだと前々から思っていて、最近アップデートでAR撮影ができるようになったのも、よりポケモンをこの世界に引き寄せたなあととても感動していた。存在のあり方というのは何も血と肉を持って生きているということだけを指すわけではないので、わたしはポケモンGOによって彼らはゲーム内だけに留まらず、ついにこの世界にもついに進出するようになったのだなあとしみじみとしてしまう。

死の定義というのは歴史的な変遷があるけれど、生の定義というものも少なくともわたしの中では変わっている気がする。まあまだポケモンがデータ上とはいえ生きているかと問われたら生きてはいないだろうが、でも存在はするようになっただろう。ゲームボーイやカードだけではなくなってしまった。位置情報とポケモンの遭遇を接続したアプリゲームを作ったのは本当に快挙だ。わたしは彼らを身近に感じるし、たぶんその距離はこれからもっと近くなるんだろう。いまだってスマホのカメラを通せば一緒に電車を待っているワニノコが見えるのだから。

その意味で名探偵ピカチュウが実写だったというのはあまりにも当然の選択だと思う。まだプレイしていないのだが最近同じような探偵もののピカチュウのゲームが出たよね。わたしはそれの派生というか、まあ探偵ものとピカチュウくっつければそれだけで楽しいだろうし、あのポケモンを実写化なんてのもそれだけで話題性抜群だろう。などというあまりにも甘い認識だった。甘かった。お陰で泣いた。

話は冒頭のミュウツーに戻るのだが、まさか逆襲のミュウツーと同一個体だと思わなくて耳を疑った。20年前に施設を破壊して脱走したあのミュウツーのその後の物語として映画はその姿を変えてしまったのだから泣くしかない。ふざけんなよ。「人間は悪だ。だが正しい心を持った人間もいる」ってもうこれはサトシのことを言っているんですよね。この世界にマサラタウンのサトシは存在しているんですよ。おそろしい話だ。これは実写なんですよ実写。

ポケモンGOポケモンを現実世界に引き寄せたと思ったら、今度は我々がよく知っているあのサトシたちの世界までもをこちらに引き寄せて具現化してしまった。たとえそれがフィルム越しだとして、一体それがなんだと言うのだろう。

子供の頃は魔法だって本物だった。いまだってハリポタやファンタビは全くのお伽話だろなんてそんなナンセンスなことは思わないだろう。わたしたちは全くの架空の世界で繰り広げられる架空の物語に感動して涙したり腹を抱えて笑ったりあんまりに酷くて怒ったりと多分に影響を受けている。 かといってほうらポケモンはこの世界にもいたんだぞ、とかそういうなんの慰めにもならない囁きを奴らはしてこないのだ。

名探偵ピカチュウはなにもポケモンを信じてそこにポケモンがいるかのように、あるいは自身がポケモンになりきって保育園で幼稚園で公園で小学校で遊んでいたかつての、あるいはいま現在の子供たち(その中にわたしももちろん入っている)への慰めのような祝福ではない。

あれはこれからもこの世界にポケモンを存在させてやるからなという確固たる意志だ、あるいは挑発、挑戦状だ。あいつらはミュウツーを、我々がかつて涙した物語の中にいたミュウツーをこの2019年という時代に接続させやがった。よりによって実写という、もしかするとアニメ表現よりは現実に近しいかもしれない形の変えて。ポケモンGOすごいな〜とか言っている場合ではないかもしれない。

ところで人生の伴侶であるオーダイルはポスターのみでの出演でしたが相変わらずいかつい顔をしており最高だった。お前が一番だよ。