詩を読むという行為について アニメ「文豪とアルケミスト」第5話所感

■文アルについて

 DMMが配信している「文豪とアルケミスト (以下文アル)」というブラウザゲームがある。文学を世界から無くそうとする「浸蝕者」を、プレイヤーである「アルケミスト」が文豪を転生させて戦わせるシミュレーションゲームである。刀剣乱舞の後発ゲームであり、刀剣が文豪版になっただけと言えばそうである。

 その文アルがこの4月からアニメになり絶賛放送中だ。「浸蝕者」に侵された文学作品の中に、転生した文豪が入り込み敵と戦う、というのが大まかな流れである。文豪が見目麗しいイケメンとなり剣やら銃やらを振り回すことに眉をしかめる人もあるだろうし、己もまたそうであった。

 第1話ではその点について、転生した文豪は文豪のイメージから作り出された幻影のようなもの、と言及しており、そのイケメンとなった文豪と実際の文豪とを切り離すことに成功している。謂わば文アルのキャラクターは文豪(のイメージ)の擬人化である。

 刀剣とは違い文豪は生きていた人間である。それをゲーム、アニメのキャラクターとして消費することに躊躇いを覚えてしまうが、アニメにおいては文豪の擬人化であることを1話から提示し、物語、キャラクターに没入しやすくしている点は評価に値するだろう。おかげで私はまんまとはまった。ニコニコ動画では1話が無料配信されているので是非ご覧いただきたい。

 太宰治芥川龍之介を中心にして、1話では太宰治走れメロス』を、2、3話では坂口安吾桜の森の満開の下』を題材に物語が進んでいく。4,5話は萩原朔太郎『月に吠える』である。といっても4話はもし文学が世界から無くなったら、という話であり、実際に朔太郎が登場するのは5話である。この5話に大変感銘を受けたのでこうして筆を執ることにした。

 

■5話について 

 

  どこから犯人は逃走したか
  ああ いく年もいく年もまへから
  ここに倒れた椅子がある
  ここに兇器がある
  ここに屍體がある
  ここに血がある
  さうして靑ざめた五月の高窓にも
  おもひにしづんだ探偵のくらい顔と
  さびしい女の髪とがふるへて居る。

 

 この萩原朔太郎「干からびた犯罪」について、福永武彦は「どのような興味津々たる探偵小説を読んだ時よりも、この九行の詩句は私に多くの空想を語りかける」*1と語った。詩とは何だろうという問いに答えることは難しいが、この福永の言葉から詩とは空想を語りかけるもの、物語を創造するのだと学んだことを覚えている。

  アニメとは往々にして物語を有しているものだろう。小説もまたそうである。小説を元にしてアニメが作られることは珍しいことではない。文アルでもまた、1話においても、2、3話においても、(図書館から小説の世界に入る、という入れ子構造を取りつつ)小説のキャラクターになった文豪が、小説の筋を追っていくようにしてストーリーが展開されていた。

 では詩はどうか。詩がアニメに内包されるとき、その詩は、そのアニメは、どのような形になるのだろう、ということ対してひとつの答えが、この5話にあったように思う。

 5話で扱われた朔太郎の詩は「悲しい月夜」、「見しらぬ犬」、「干からびた犯罪」、「殺人事件」、「くさった蛤」、「贈物にそへて」、「竹」2編、「酒精中毒者の死」「地面の底の病氣の顔」等である。いくつかの詩は朔太郎によって朗読され、朗読劇を見ているのようなシーンもあったが、けしてそれだけには留まらない。

『月に吠える』に入り込んだ芥川、太宰たちは中原中也の死体を見つける。このシーンは「殺人事件」の「とおい空でぴすとるがなる」から、「干からびた犯罪」の「ここ倒れた椅子がある/ここに兇器がある/ここに屍體がある/ここに血がある」を踏まえたものだろう。ここからコミカルな推理パートが始まるわけだが、ある程度会話が進むと死体が別のキャラクターに入れ替わり、死体を発見するところから始まる。所謂ループものになるのである。その間に椅子、蛙、くさった蛤といった詩に関連する小道具が出現し、元の詩を連想させる仕組みになっている。

 芥川は死体のそばにある椅子に目をつけ、それにより殺人現場のループから脱出し、ようやく朔太郎と相見える。ここからが息をつかせぬ展開であり舌を巻いた。

「贈物にそへて」の朗読と共に舞台は麦畑に変わる。兵隊の姿をした「浸蝕者」と戦う文豪たちであるが、麦畑といえば「麥畑の一隅」であろう。「信仰からきたるものは/すべて幽霊のかたちで視える」とあり、続く路地裏での「酒精中毒者の死」朗読シーンにも出てくる「浸蝕者」がゾンビのような姿形をしているのはここから来ているのかもしれない。

 そして「竹」である。ここでは「竹」2編の朗読と共に、竹林で芥川と太宰が朔太郎と刃を交えるシーンである。芥川と太宰が落下し大きな顔の口に飲み込まれるのは「地面の底の病氣の顔」に拠るものか。

 このようにして『月に吠える』をベースとした世界観が構築されているが、前話までの小説の中に入り、小説のストーリーを追うという形にはなっていない。詩は小説のような明確なストーリーを持たない(と断言できるほど私は詩に通じていないのだが)。詩がストーリーを持つのは、それがひとに読まれ、そのひとがストーリーを作り出したときである。ここで詩を読んだ主体とは文豪とアルケミストそのもの、もうひとつは文豪とアルケミストに登場する萩原朔太郎だ。5話は詩を読むという行為が作品の外と内とで二重に織りなされていると言える。

 朔太郎の声優を務める野島健児による静かで、しかし力強い朗読は聞き惚れるものがあった。すでに発売中の朔太郎の朗読CDはここから視聴することができるが、これと比較してみると、アニメの朗読は文アルの朔太郎というキャラクターとして朗読されていることが分かるだろう。「キャラクター」が「詩」を「読んでいる」のである。ここには物語が生まれてくる。キャラクターとしての朔太郎が詩を読むことによって生まれる物語とは要するに5話である。それがどういった形で終わるのかという点についてはここでは触れない。問題はこの5話、作品の外側にある。

 好きな作品を使って他作品をこき下ろしたくはないのだが本当に作品を読んだのか? 作者について調べたのか? と言いたくなる作品がある中で、作品を元に物語が作られたということに感動を覚えてしまう。ゲームやアニメというものはけしてひとりによって作られるものではないから、ここでは製作委員会が文アルのアニメを作ったとしよう。

 アニメでは太宰と芥川のダブル主人公という印象を受けるが、この2人が「浸蝕者」から文学を守っていく中で、芥川の失われた記憶を取り戻していくというのが物語の最終的な目的地だろう。各文学作品はその通過点である。

 そして5話は『月に吠える』であった。詩を物語にするためにはまずその詩を読まねば始まらない。小説は読めばストーリーはおのずと知れてくるが、詩はそうではない。読むだけではその詩は理解できない。小説のように物語を受動的に享受することはできない。読み手はその詩に入り込まなければ詩を読むことにはならない。あるいはその詩を取り込み、咀嚼しなければその詩を読んだとは言えない。ただ言葉を追うだけでは文字を追っているだけに過ぎない。

 この一連の能動的な行為こそが詩を読むということではないか。そしてこの行為によって生み出されたものが5話なのではないか。私は文豪とアルケミストという物語をきっかけにして『月に吠える』が読まれた結果、5話が生まれたと思いたい。詩を読むということは、とても独創性に富んだ、詩と読者(ここでは朔太郎の詩と製作委員会)の相互の営みであり、それがアニメという形になったものが5話だったと思いたいのである。詩を読むということは物語を創造することなのではないか、と私にひとつの考えをもたらしてくれたのがこの5話だった。

 

 ところでストーリーの話をすると、それまで「浸蝕者」が明確な敵として立ち現れていたが、5話では「浸蝕者」が文豪(ここでは朔太郎である)と結託して作品を消そうする。ある意味でタスクのように「浸蝕者」と戦っていくものとばかり考えていたので、このような捻りを入れられると今後の展開に期待せざるを得ない。ニコニコ動画では最新話が無料配信されているので、こちらも是非ご覧いただきたい。6話も楽しみである。まだ5話なのだが2期もやってほしいものだ。欲を言えば敬愛する福永武彦(とその親友中村真一郎)を実装してほしい。
 

*1:萩原朔太郎詩集」(「本の手帳」昭和37年5月号)