スタジオジブリ「風立ちぬ」雑感 堀越二郎は死を見ない

※批判的です。

先日軽井沢に行って堀辰雄のゆかりの地を訪れたこともあり、そういえばまだ観ていなかったスタジオジブリ風立ちぬ」(以下ジブリ版)を観ることにした。個人的にあまり好かない映画ではあったが、色々と思うことはあり筆を執る。
 

ジブリ版「風立ちぬ」について

この映画で有名な話と言えば主人公である堀越二郎エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明を演じていることだろうか。かくいう私も庵野がやっている、ということだけは知っていた。この点に関しては(駄目な人は駄目だった、という話も聞くが)なかなかはまっていたのではないだろうかと思う。

ゼロ戦の設計者としての堀越二郎について、私は映画を観るまでその名前すら知らなかったので彼については触れないし触れられないが、ジブリ版はその彼のストーリーを主軸に、『風立ちぬ』の要素を混ぜた話になっている。

飛行機の美しさに惹かれた二郎は、現在の三菱重工に入社し日本独自の戦闘機を作るべく日夜試行錯誤し(この間に『風立ちぬ』が挟み込まれる)ついにゼロ戦を作り上げ、しかし日本は敗戦して終わる、というのが大変ざっくりとしたストーリーである。

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作中では一瞬の映像でしか語られず分かりにくいが、どうも二郎は途中飛行機設計がうまくいかず挫折を味わったようで、その傷心旅行として軽井沢へ避暑に訪れる。そこでヒロインの菜穂子と運命的な再会を果たすわけである。

■菜穂子について

再会、と書いたが2人は映画序盤で出会っていた。

二郎は実家から東京に戻る道中、彼の乗る三等車と、菜穂子の乗る二等車の連結部分において初めてお互いを認識する。このシーンは彼らの生きる世界について大変示唆的に描かれており、二郎の「三等車」と菜穂子の「二等車」が強調されていることに注目したい。菜穂子が連結部から車両に戻る際など、「二等車」とはっきりと書かれた扉で二郎は視界を遮られる。2人は生きている世界が違うのである。

この段階ではまだ経済的、身分的格差があるにすぎない。住む世界が違うとはいえ同じ社会には住んでいる。問題は2人が再会した後である。

列車に乗っている途中関東大震災が起こり、負傷した侍女を菜穂子の住む家まで送り届けた二郎は名も明かさず姿を消してしまう。その後、彼女の家に訪れたことが明かされるが、震災後の火災で跡形もなくなっており(このシーンがなんだか狐につままれたような印象を受ける点は大変興味深い。妖しげである)、二郎は彼女の行方が分からなくなっていたことが分かる。そして年月を経て、2人は軽井沢で再会する。

再会はしたものの菜穂子は体調を崩し、しばらく2人はさながらロミオとジュリエットのようにバルコニー越しにしか会うことができなくなる。お見舞いのひとつでもしてやれば良かろうと思わないではないが、ここで序盤において強調されていた世界の違いが生きてくる。

現代であると村上春樹が多用しているイメージであるが、高低差というものは異なる世界を示していることが多い。それを繋ぐものとして坂・階段・梯子が使われる。分かりやすい例としては黄泉国へと通じている黄泉平坂であろうか。「坂」は要するに「境」と考えるとしっくりくるかもしれない。境とは世界の境である。

ジブリ版「風立ちぬ」では冒頭での列車と列車の連結部が世界の境に当たる。軽井沢のシーンでは階段から菜穂子が降りてくるシーンが分かりやすいだろう。菜穂子は空間的に上の世界に住んでおり、二郎は菜穂子を見舞うことができなかったように、そこに行くことができない。

序盤の平面的な世界の違いであれば境というものは跨ぐことができる。現に、二郎の吹き飛ばされた帽子をキャッチし、危うく列車から落ちそうになった菜穂子を支えるために、二郎は二等車の方へ移動している。しかしこの点でも注意したいのが、三等車から二等車への移動は多少の命の危険を孕んでいるということである。

平面ですら跨ぐ、という行為には危険が伴っており、これが上下の立体的な世界の違いになると余計である(先に挙げた黄泉の国などまさに死の世界である)。二郎は菜穂子に紙飛行機を飛ばして彼女を楽しませるが、屋根に引っかかってしまう。それを取ろうと二郎はバルコニーの縁に足をかけて飛行機を取ろうとするが、二郎の体重を支えきれずに足をかけていた部分が崩れ、あわや二郎は落下、ということが起きる。下手をすれば死んでいたシーンである。上に手を伸ばしただけで死にかけるのだ。

だがその後病状が回復した菜穂子は、「階段から降り」てきて二郎と婚約する。降りることは容易なようである。

f:id:miya_tankei:20201019120248j:plainこのようにジブリ版「風立ちぬ」は世界のルールが存在している。

・菜穂子と二郎は住む世界が違う
・二郎は菜穂子の住む世界には行けない(行けたとしても精々世界の端(連結部、家の前、階段の下)程度である)が、菜穂子は二郎の世界に行くことができる

・世界を跨ぐ行為は命の危険が孕む

というのが主なルールだろう。(個人的に宮崎駿のことは信用していないというのと、私の感覚で書くのだが、これは宮崎駿が意図的に入れた、というよりは結果的に出てきたものではないかと考えている)

このルールの通りで行くと謂わば下界に降りてきた菜穂子の死は約束されているようなものかもしれない。サナトリウムも菜穂子の属する世界と考えると、二郎がついて行けなかったこともルールに沿っているし、サナトリウムを抜け出して二郎に会いに来た菜穂子を返すことができなかったのも頷ける。

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ところで、住む世界の違う2人が何故出会えたのかという点についてもいちおう書いておきたいと思う。映画序盤では世界の縁で偶然巡り会っただけであり、その後震災がなければそれきりであっただろう。この映画における関東大震災というのは、文字通り世界をひっくり返す装置として存在していたのではないかと考えている。その後、日常に戻った後二郎が菜穂子に会えなかったことからも、震災は世界のルールを破壊するアイテムとして機能していたように思う。

カストルプの台詞で明かされるが二郎たちが滞在しているのは「魔の山」である。「魔」なのだ。震災ほどではないが、これもまた世界のルールが多少薄められるある種の別世界として存在しているのではないかと考えている。異界としての軽井沢である。堀辰雄風立ちぬ』で登場する「死のかげの谷」(ヒロインが死んだあとの舞台)ではない点に関しては後述する。

■二郎の世界について

私がこの映画が「風立ちぬ」というタイトルを採用したことについて大変遺憾に思っている一番の理由は、二郎の世界は徹底して死が排除されていることである。

上記のように二郎と菜穂子の住む世界は大きな隔たりがあり、死に近いのは菜穂子の世界である。二郎ではない。喀血をした菜穂子、と死を強烈に想起させるシーンでも、二郎はそこから遠くにいた。菜穂子が喀血したことを聞くことすら、理解しにくい電報を電話越しに聞く、という徹底ぶりで距離が作られている。

思えば二郎は極度の近眼である。近眼であるから飛行機には乗ることはできない。菜穂子の住む世界は二郎の上にある。飛行機もまた上、空である。飛行機とはゼロ戦のことだ。要するに空は死の世界であり、二郎は近眼であるが故に空(映画冒頭で言えば流星)を見ることができない。二郎にとって死は遠すぎて見えないのである。遠すぎて見えないので、夢を見るしかない。手元に置いていた菜穂子は死が近くなると遠くに行ってしまうし、ゼロ戦も海の彼方で沈んだのでそれぞれ夢で見るしかない。

この夢に関しては後述するが、堀辰雄の『風立ちぬ』は「いくぶん死の味のする生の幸福」の物語であって、死が手の届かない遠くにあってどうして「風立ちぬ」なのだとこの点に関しては疑問を感じずにはいられない。

堀辰雄風立ちぬ』について

ご存じの方も多いだろうが『風立ちぬ』は婚約者が結核になりサナトリウムでの日々が綴られた物語である。(青空文庫で公開されているので未読の方はここで読むことができる。)

堀辰雄はこの作品について「美しかれ、悲しかれ」で「これまでの「美しい村」や「風立ちぬ」なんぞは、ほんの私のモノローグに過ぎぬでしょう。(中略)「風立ちぬ」を書き上げたあとで、一年ばかり山のなかに孤独に暮してから、ようやく他人の方へ目を向けるように」なった、と語っている。*1風立ちぬ』は、他人ではなく自己に目が向いた話として堀の中では位置づけられているようだ。

確かに、『風立ちぬ』は「私」と節子の2人の物語ではあるが、その実「私」の独白である。読者は「私」を通さなければ節子を見ることができない。まず「私」ありきなのである。これについて福永武彦は「この主人公は芸術家のエゴを育てるために、一切を自分の好みの通りに感じているのではないか」*2と指摘している。

風立ちぬ』の主人公の「私」は堀越二郎ではないし、ヒロインは菜穂子ではなく節子である。だが、このヒロインの名前の異同についてだが、節子を「自分の好みの通りに感じている」のであれば、それは節子本人ではないから、その節子本人ではない節子を登場させるに当たって、名前を変えるということはさして違和感はなく、この点はむしろ自然にすら感じる。

ジブリ版における表面的な『風立ちぬ』の要素は「軽井沢」「婚約者が結核になった」「サナトリウムが出てくる」程度のもので、およそ『風立ちぬ』ではない。『風立ちぬ』の「私」は仕事よりも婚約者を優先し、サナトリウムについていき日々を過ごす。二郎とは真逆であり、一体全体どうしてタイトルを「風立ちぬ」にしたのか正直理解しがたいが、私は文学万能主義者であるので、例え要素だけ抜き出したとしても『風立ちぬ』は映画を包括してしまうだろうと信じている。

■夢について

ジブリ版「風立ちぬ」では夢の世界から始まるなど夢のシーンが多い。だが夢への切り替えも分かりやすくないから、これが一体二郎の夢なのか現実世界のことなのかいまいち分かりにくい表現になっている。(個人的にこの夢と現が混じり合った演出は好みではある。)

風立ちぬ』の方でも夢についての記述はいくつかあり、特徴的なものが以下である。

「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。
「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰つぶし出しているのだ……」

風立ちぬ』における「夢」とは「こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすこと」であり、「仕事」というのは小説家としての仕事である。

これがジブリ版「風立ちぬ」になるとどうであるか。「夢」は「ゼロ戦」であり「仕事」もまた夢と同等である。宮崎駿ジブリ版「風立ちぬ」について「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」*3と語っている。『風立ちぬ』ではそこまで「夢」というものは大きい立ち位置にはないが、ジブリ版の方ではそうでもないらしい。

風立ちぬ』はけして「私」の「夢」によって「節子」を「サナトリウム」に連れてきたわけではなく節子の父の願い等色々な要因があった。しかしジブリ版「風立ちぬ」は、「このおれの夢(=ゼロ戦)がこんなところ(=自宅)までお前(=菜穂子)を連れて来たようなものなのだろうかしら?」が、まさにそうなった物語として、『風立ちぬ』を再構築している、と見ることができる。(繰り返すが私は宮崎駿を信用していないので監督が意図的に作った、というよりは結果的にこうなった、と私は考えている。)

福永はまた「もしも「死のかげの谷」が「私」の悔恨を照らし出さなかったならば、この小説はもっと救いのない、後味の悪いものとなったかもしれない」と述べている。

ジブリ版には「死のかげの谷」はなく、あるのは「魔の山」であることは既に述べた。二郎は死を見ることができないので「死のかげの谷」には絶対に行くことができない。その代わりに彼は夢を見るしかないのである。図らずして宮崎駿は、福永の言う「死のかげの谷」がない「救いのない、後味の悪い」『風立ちぬ』を作り出すことができたと言えよう。確かに戦争というものは救いもないし後味の悪いものであろう。だが二郎には、菜穂子にしろゼロ戦にしろ、彼らの死の責任がある。夢ではなく彼らの死をその目で見て、悔恨を感じてほしかったものである。

堀辰雄風立ちぬ』本文引用は図書カード:風立ちぬによった。
※画像は風立ちぬ - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLIから使用した(2020/10/19アクセス)。

最後にgifteeを貼っておくのでおもしろかったゾという方は何か送っていただけると喜ぶ。

*1:本文引用は図書カード:「美しかれ、悲しかれ」によった。

*2:福永武彦堀辰雄の作品」(出典は長すぎて書くのが怠いので許してください。)(引用は『福永武彦全集 第16巻』(昭和62年、新潮社)

*3:風立ちぬ」パンフレット