スタジオジブリ「風立ちぬ」雑感 堀越二郎は死を見ない

※批判的です。

先日軽井沢に行って堀辰雄のゆかりの地を訪れたこともあり、そういえばまだ観ていなかったスタジオジブリ風立ちぬ」(以下ジブリ版)を観ることにした。個人的にあまり好かない映画ではあったが、色々と思うことはあり筆を執る。
 

ジブリ版「風立ちぬ」について

この映画で有名な話と言えば主人公である堀越二郎エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明を演じていることだろうか。かくいう私も庵野がやっている、ということだけは知っていた。この点に関しては(駄目な人は駄目だった、という話も聞くが)なかなかはまっていたのではないだろうかと思う。

ゼロ戦の設計者としての堀越二郎について、私は映画を観るまでその名前すら知らなかったので彼については触れないし触れられないが、ジブリ版はその彼のストーリーを主軸に、『風立ちぬ』の要素を混ぜた話になっている。

飛行機の美しさに惹かれた二郎は、現在の三菱重工に入社し日本独自の戦闘機を作るべく日夜試行錯誤し(この間に『風立ちぬ』が挟み込まれる)ついにゼロ戦を作り上げ、しかし日本は敗戦して終わる、というのが大変ざっくりとしたストーリーである。

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作中では一瞬の映像でしか語られず分かりにくいが、どうも二郎は途中飛行機設計がうまくいかず挫折を味わったようで、その傷心旅行として軽井沢へ避暑に訪れる。そこでヒロインの菜穂子と運命的な再会を果たすわけである。

■菜穂子について

再会、と書いたが2人は映画序盤で出会っていた。

二郎は実家から東京に戻る道中、彼の乗る三等車と、菜穂子の乗る二等車の連結部分において初めてお互いを認識する。このシーンは彼らの生きる世界について大変示唆的に描かれており、二郎の「三等車」と菜穂子の「二等車」が強調されていることに注目したい。菜穂子が連結部から車両に戻る際など、「二等車」とはっきりと書かれた扉で二郎は視界を遮られる。2人は生きている世界が違うのである。

この段階ではまだ経済的、身分的格差があるにすぎない。住む世界が違うとはいえ同じ社会には住んでいる。問題は2人が再会した後である。

列車に乗っている途中関東大震災が起こり、負傷した侍女を菜穂子の住む家まで送り届けた二郎は名も明かさず姿を消してしまう。その後、彼女の家に訪れたことが明かされるが、震災後の火災で跡形もなくなっており(このシーンがなんだか狐につままれたような印象を受ける点は大変興味深い。妖しげである)、二郎は彼女の行方が分からなくなっていたことが分かる。そして年月を経て、2人は軽井沢で再会する。

再会はしたものの菜穂子は体調を崩し、しばらく2人はさながらロミオとジュリエットのようにバルコニー越しにしか会うことができなくなる。お見舞いのひとつでもしてやれば良かろうと思わないではないが、ここで序盤において強調されていた世界の違いが生きてくる。

現代であると村上春樹が多用しているイメージであるが、高低差というものは異なる世界を示していることが多い。それを繋ぐものとして坂・階段・梯子が使われる。分かりやすい例としては黄泉国へと通じている黄泉平坂であろうか。「坂」は要するに「境」と考えるとしっくりくるかもしれない。境とは世界の境である。

ジブリ版「風立ちぬ」では冒頭での列車と列車の連結部が世界の境に当たる。軽井沢のシーンでは階段から菜穂子が降りてくるシーンが分かりやすいだろう。菜穂子は空間的に上の世界に住んでおり、二郎は菜穂子を見舞うことができなかったように、そこに行くことができない。

序盤の平面的な世界の違いであれば境というものは跨ぐことができる。現に、二郎の吹き飛ばされた帽子をキャッチし、危うく列車から落ちそうになった菜穂子を支えるために、二郎は二等車の方へ移動している。しかしこの点でも注意したいのが、三等車から二等車への移動は多少の命の危険を孕んでいるということである。

平面ですら跨ぐ、という行為には危険が伴っており、これが上下の立体的な世界の違いになると余計である(先に挙げた黄泉の国などまさに死の世界である)。二郎は菜穂子に紙飛行機を飛ばして彼女を楽しませるが、屋根に引っかかってしまう。それを取ろうと二郎はバルコニーの縁に足をかけて飛行機を取ろうとするが、二郎の体重を支えきれずに足をかけていた部分が崩れ、あわや二郎は落下、ということが起きる。下手をすれば死んでいたシーンである。上に手を伸ばしただけで死にかけるのだ。

だがその後病状が回復した菜穂子は、「階段から降り」てきて二郎と婚約する。降りることは容易なようである。

f:id:miya_tankei:20201019120248j:plainこのようにジブリ版「風立ちぬ」は世界のルールが存在している。

・菜穂子と二郎は住む世界が違う
・二郎は菜穂子の住む世界には行けない(行けたとしても精々世界の端(連結部、家の前、階段の下)程度である)が、菜穂子は二郎の世界に行くことができる

・世界を跨ぐ行為は命の危険が孕む

というのが主なルールだろう。(個人的に宮崎駿のことは信用していないというのと、私の感覚で書くのだが、これは宮崎駿が意図的に入れた、というよりは結果的に出てきたものではないかと考えている)

このルールの通りで行くと謂わば下界に降りてきた菜穂子の死は約束されているようなものかもしれない。サナトリウムも菜穂子の属する世界と考えると、二郎がついて行けなかったこともルールに沿っているし、サナトリウムを抜け出して二郎に会いに来た菜穂子を返すことができなかったのも頷ける。

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ところで、住む世界の違う2人が何故出会えたのかという点についてもいちおう書いておきたいと思う。映画序盤では世界の縁で偶然巡り会っただけであり、その後震災がなければそれきりであっただろう。この映画における関東大震災というのは、文字通り世界をひっくり返す装置として存在していたのではないかと考えている。その後、日常に戻った後二郎が菜穂子に会えなかったことからも、震災は世界のルールを破壊するアイテムとして機能していたように思う。

カストルプの台詞で明かされるが二郎たちが滞在しているのは「魔の山」である。「魔」なのだ。震災ほどではないが、これもまた世界のルールが多少薄められるある種の別世界として存在しているのではないかと考えている。異界としての軽井沢である。堀辰雄風立ちぬ』で登場する「死のかげの谷」(ヒロインが死んだあとの舞台)ではない点に関しては後述する。

■二郎の世界について

私がこの映画が「風立ちぬ」というタイトルを採用したことについて大変遺憾に思っている一番の理由は、二郎の世界は徹底して死が排除されていることである。

上記のように二郎と菜穂子の住む世界は大きな隔たりがあり、死に近いのは菜穂子の世界である。二郎ではない。喀血をした菜穂子、と死を強烈に想起させるシーンでも、二郎はそこから遠くにいた。菜穂子が喀血したことを聞くことすら、理解しにくい電報を電話越しに聞く、という徹底ぶりで距離が作られている。

思えば二郎は極度の近眼である。近眼であるから飛行機には乗ることはできない。菜穂子の住む世界は二郎の上にある。飛行機もまた上、空である。飛行機とはゼロ戦のことだ。要するに空は死の世界であり、二郎は近眼であるが故に空(映画冒頭で言えば流星)を見ることができない。二郎にとって死は遠すぎて見えないのである。遠すぎて見えないので、夢を見るしかない。手元に置いていた菜穂子は死が近くなると遠くに行ってしまうし、ゼロ戦も海の彼方で沈んだのでそれぞれ夢で見るしかない。

この夢に関しては後述するが、堀辰雄の『風立ちぬ』は「いくぶん死の味のする生の幸福」の物語であって、死が手の届かない遠くにあってどうして「風立ちぬ」なのだとこの点に関しては疑問を感じずにはいられない。

堀辰雄風立ちぬ』について

ご存じの方も多いだろうが『風立ちぬ』は婚約者が結核になりサナトリウムでの日々が綴られた物語である。(青空文庫で公開されているので未読の方はここで読むことができる。)

堀辰雄はこの作品について「美しかれ、悲しかれ」で「これまでの「美しい村」や「風立ちぬ」なんぞは、ほんの私のモノローグに過ぎぬでしょう。(中略)「風立ちぬ」を書き上げたあとで、一年ばかり山のなかに孤独に暮してから、ようやく他人の方へ目を向けるように」なった、と語っている。*1風立ちぬ』は、他人ではなく自己に目が向いた話として堀の中では位置づけられているようだ。

確かに、『風立ちぬ』は「私」と節子の2人の物語ではあるが、その実「私」の独白である。読者は「私」を通さなければ節子を見ることができない。まず「私」ありきなのである。これについて福永武彦は「この主人公は芸術家のエゴを育てるために、一切を自分の好みの通りに感じているのではないか」*2と指摘している。

風立ちぬ』の主人公の「私」は堀越二郎ではないし、ヒロインは菜穂子ではなく節子である。だが、このヒロインの名前の異同についてだが、節子を「自分の好みの通りに感じている」のであれば、それは節子本人ではないから、その節子本人ではない節子を登場させるに当たって、名前を変えるということはさして違和感はなく、この点はむしろ自然にすら感じる。

ジブリ版における表面的な『風立ちぬ』の要素は「軽井沢」「婚約者が結核になった」「サナトリウムが出てくる」程度のもので、およそ『風立ちぬ』ではない。『風立ちぬ』の「私」は仕事よりも婚約者を優先し、サナトリウムについていき日々を過ごす。二郎とは真逆であり、一体全体どうしてタイトルを「風立ちぬ」にしたのか正直理解しがたいが、私は文学万能主義者であるので、例え要素だけ抜き出したとしても『風立ちぬ』は映画を包括してしまうだろうと信じている。

■夢について

ジブリ版「風立ちぬ」では夢の世界から始まるなど夢のシーンが多い。だが夢への切り替えも分かりやすくないから、これが一体二郎の夢なのか現実世界のことなのかいまいち分かりにくい表現になっている。(個人的にこの夢と現が混じり合った演出は好みではある。)

風立ちぬ』の方でも夢についての記述はいくつかあり、特徴的なものが以下である。

「このおれの夢がこんなところまでお前を連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。
「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。それでいて、おれは仕事をしながらお前のことをもっともっと考えているのだと、お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰つぶし出しているのだ……」

風立ちぬ』における「夢」とは「こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすこと」であり、「仕事」というのは小説家としての仕事である。

これがジブリ版「風立ちぬ」になるとどうであるか。「夢」は「ゼロ戦」であり「仕事」もまた夢と同等である。宮崎駿ジブリ版「風立ちぬ」について「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」*3と語っている。『風立ちぬ』ではそこまで「夢」というものは大きい立ち位置にはないが、ジブリ版の方ではそうでもないらしい。

風立ちぬ』はけして「私」の「夢」によって「節子」を「サナトリウム」に連れてきたわけではなく節子の父の願い等色々な要因があった。しかしジブリ版「風立ちぬ」は、「このおれの夢(=ゼロ戦)がこんなところ(=自宅)までお前(=菜穂子)を連れて来たようなものなのだろうかしら?」が、まさにそうなった物語として、『風立ちぬ』を再構築している、と見ることができる。(繰り返すが私は宮崎駿を信用していないので監督が意図的に作った、というよりは結果的にこうなった、と私は考えている。)

福永はまた「もしも「死のかげの谷」が「私」の悔恨を照らし出さなかったならば、この小説はもっと救いのない、後味の悪いものとなったかもしれない」と述べている。

ジブリ版には「死のかげの谷」はなく、あるのは「魔の山」であることは既に述べた。二郎は死を見ることができないので「死のかげの谷」には絶対に行くことができない。その代わりに彼は夢を見るしかないのである。図らずして宮崎駿は、福永の言う「死のかげの谷」がない「救いのない、後味の悪い」『風立ちぬ』を作り出すことができたと言えよう。確かに戦争というものは救いもないし後味の悪いものであろう。だが二郎には、菜穂子にしろゼロ戦にしろ、彼らの死の責任がある。夢ではなく彼らの死をその目で見て、悔恨を感じてほしかったものである。

堀辰雄風立ちぬ』本文引用は図書カード:風立ちぬによった。
※画像は風立ちぬ - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLIから使用した(2020/10/19アクセス)。

最後にgifteeを貼っておくのでおもしろかったゾという方は何か送っていただけると喜ぶ。

*1:本文引用は図書カード:「美しかれ、悲しかれ」によった。

*2:福永武彦堀辰雄の作品」(出典は長すぎて書くのが怠いので許してください。)(引用は『福永武彦全集 第16巻』(昭和62年、新潮社)

*3:風立ちぬ」パンフレット

私と短歌と文アル、詩と後悔、愛する作家の話

 私にとって短歌はツールだった。

 所属していた文芸部が毎年盛岡で行われる短歌甲子園に出場していたから(確か予選落ちのこともあったから毎年は語弊がありそうなのだけれど)啄木の歌にはふれていた。私は彼の歌を読んで短歌が日記のようだと思った、もっと言えばツイッターのようだと思っていた。
 思春期でしか詠めない歌があるという話を真に受けていたことを覚えている。詩作は思春期の特権だ。そしてまた日記もツイッターも、別に他の人の読まなくても書けるし、呟ける。そう思って別に啄木の歌はそこまで読もうとは思わなかったし、他の歌人の歌もよく知らない。ツイッターで言えば他人をフォローすることをしなかった。ただ思うままに短歌を詠んでいた。
 言い訳をすると甲子園に行った1回目のときに買った啄木の漫画がとんでもなかったり(なんだこのカンニング野郎!とか)、図書室で眺めていた本で、母親の面倒見ないなら死ね、と妹に送った手紙が載っていたりと、啄木にいい印象を抱いていなかったのもあった。
 現代の歌は破調が多く難解なものが多い印象もあって、まあツイッターだし思ったことを詠めばいい、と思っていたものだ。要するに鑑賞という視点が抜けていた。勿体ないことをしたと思う。

 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりける、と文アルを開くとスタート画面で、ときどき櫻井孝宏演じる斎藤茂吉が歌を詠んでくれる。
 初めてこれを聞いたとき、綺麗な歌だなと思った。声という限定的な表現力に特化した声優が詠んでいるからというのも勿論あるのだろうけれど、仕事中この歌がぐるぐると頭の中でこだましていた。綺麗な歌だ。歌なのだ。短歌は歌だった。
 短歌甲子園にまで行ったくせにそのことに気づくのがずいぶん遅かった。短歌は歌だったのだ。好きな歌のサビをつい鼻歌で歌うように、短歌もまたそうなのだ。
 高校生の私は短歌をツールだと考えていた。だから多くはなかったけれど歌を作った。そろそろ30代が見えてきた私は短歌を歌だと思う。だからたぶんこれから聞くのだろう。JPOPだって星の数ほどあるように、短歌だってたくさんある。どれにふれてみよう、と思うときの高揚感と、すべてにふれることはできないという絶望感がないまぜになったこの感覚はなんとも形容しがたいものがある。新しく視界が開けたような心地と、もう少し早く気づけたら良かったのにという後悔。

 私は短歌甲子園で未来は大樹のように広がっているけれど、選べるのはその一本だけ、というような歌を詠んだ。いま考えても残酷な歌だと思う。確かこの歌は負けてしまったのだったか、どうだったか覚えていないし、どういう歌かも覚えていない(そのときの資料は残っている、というかたぶん捨ててはいないので探せば出てくると思うが)。
 後悔と言うには死にたくなる道を選んでしまったと思う。大きく分かれた二本の枝があって、私は枯れゆく方の枝を選んでしまった。実際枯れかけた。かろうじて生きてしまっていて、特にもう死にたくもなく、ついに生きることを覚えてしまった(短歌の話をしたかったのにどんどん自分の話になってきたなあ、と思うのだけれど、短歌は私を内包しているので仕方がない)。
 以前ならそれでも生きることに苦しみを覚えていたものだが、どうなのだろう。最近はとても楽しい。お金は稼げていないのだけれど、将来が楽しみだなと思うし、楽しみな分不安があることも含めて楽しんでいる気もする。どうであろう。この辺りは戻れないくせに進んでみないと分からないのがもどかしいところだ。

 小学生のときに詩を暗唱させられたことを覚えている。多かったのは谷川俊太郎だろうか。私の詩的体験の初めはそれだったので、近代詩というとどうも嫌煙しがちだった。
 中3の頃だったかに司書の先生におすすめの詩を尋ねたらば銀色夏生の『ロマンス』を教えてくれた。案の定刺さったものだ。思春期はヘテロラブに囚われていたから余計に(機能性不全の家庭にいた私は仲睦まじい夫婦と柔らかい愛情を注がれる子どもを夢見ていた。グロテスクだ)。
「そして君に出会うまでは孤独だったと」というフレーズは私の心に刻まれているが、あるいは傷のようでもある。刻まれてしまったのだから当然か。
 先生としては中高生の女の子にぴったりの詩人を紹介したつもりだったのかもしれないのだけれど、他の近代詩を教えてくれたらなあ、と思わないでもない。責めてるような書き振りになる。本は一冊でひとの人生を変えるものだ。それを教えてくださいなどと言われた日にはたまったものではない。難儀な質問をしたものだ。どこの向かうかのはじめの一歩を気軽に聞いてくる子どもたちなど、私は恐れ多くて相手をするのもこわい。
 私の話をすると結局福永武彦のところに戻ってくるのだということに驚いている。文アルにはまり、あまり興味がなかった福永の交わった人々に関する随筆を読み、彼が編んだ朔太郎の詩集を読み、犀星の詩集を読んだ。
「自分は愛のあるところを目指して行くだろう」という犀星の言葉にやさしく包まれている。こういったセンチメンタルな記事を書いているせいもあり、ページをめくってこの詩を読んだときにぽろりと泣いてしまった。愛のあるところ。愛のあるところの私も行きたいものだ。戻れない道を間違えたので、もう「昨日のごとく正しく」私は歩めないのだけれど、それでも、どうせ行くならば愛のあるところに行きたい。
 本当はこんなことを書くつもりではなかった。犀星の詩にふれたら自分も試作がしたくなった、というようなことが書きたかっただけなのに、泣くはめになってしまった。室生犀星には多くひとが集まったというが、彼の詩を読むとそれが目に浮かぶようだ。私の愛する福永武彦もそうだったのだから、私も惹かれるだろう。
 私は福永武彦の全集を全て読んでしまうのがこわかった。彼の残したほとんどの言葉を読み切ってしまうのがこわかった。それで全てが終わってしまう気がしていた。そうではなかった。たぶんきっと全てを読んでも彼はそこで終わらないし、むしろそこから新しい世界が開けていくのではないかと最近よく思う。彼の随筆をいくつか読み、彼が愛した作品にふれて、感動して、それがずっと続いて、広がって行くだろうと思う。もう彼自身は死んでしまったから、もう新しい作品を読むこともできないし、何も変わらないのだけれど、彼の愛は世界に散りばめられていて、私はそれを拾って生きていきたいと思うのだ。

アニメと現実の境 映画「名探偵ピカチュウ」所感

※以下公開当初の感想をそのまま引っ張り出してきたものになります。所々お口が悪い。

 

++++++

 

名探偵ピカチュウ、予告でミュウツーが出るのは知ってたけれど、まさか逆襲のミュウツーと接続してくるとは思わなくて号泣した。この映画はポケモンGOの延長でもあるんですよね。

まずポケGOでこの現実世界にポケモンを存在させたのはすごいことだと前々から思っていて、最近アップデートでAR撮影ができるようになったのも、よりポケモンをこの世界に引き寄せたなあととても感動していた。存在のあり方というのは何も血と肉を持って生きているということだけを指すわけではないので、わたしはポケモンGOによって彼らはゲーム内だけに留まらず、ついにこの世界にもついに進出するようになったのだなあとしみじみとしてしまう。

死の定義というのは歴史的な変遷があるけれど、生の定義というものも少なくともわたしの中では変わっている気がする。まあまだポケモンがデータ上とはいえ生きているかと問われたら生きてはいないだろうが、でも存在はするようになっただろう。ゲームボーイやカードだけではなくなってしまった。位置情報とポケモンの遭遇を接続したアプリゲームを作ったのは本当に快挙だ。わたしは彼らを身近に感じるし、たぶんその距離はこれからもっと近くなるんだろう。いまだってスマホのカメラを通せば一緒に電車を待っているワニノコが見えるのだから。

その意味で名探偵ピカチュウが実写だったというのはあまりにも当然の選択だと思う。まだプレイしていないのだが最近同じような探偵もののピカチュウのゲームが出たよね。わたしはそれの派生というか、まあ探偵ものとピカチュウくっつければそれだけで楽しいだろうし、あのポケモンを実写化なんてのもそれだけで話題性抜群だろう。などというあまりにも甘い認識だった。甘かった。お陰で泣いた。

話は冒頭のミュウツーに戻るのだが、まさか逆襲のミュウツーと同一個体だと思わなくて耳を疑った。20年前に施設を破壊して脱走したあのミュウツーのその後の物語として映画はその姿を変えてしまったのだから泣くしかない。ふざけんなよ。「人間は悪だ。だが正しい心を持った人間もいる」ってもうこれはサトシのことを言っているんですよね。この世界にマサラタウンのサトシは存在しているんですよ。おそろしい話だ。これは実写なんですよ実写。

ポケモンGOポケモンを現実世界に引き寄せたと思ったら、今度は我々がよく知っているあのサトシたちの世界までもをこちらに引き寄せて具現化してしまった。たとえそれがフィルム越しだとして、一体それがなんだと言うのだろう。

子供の頃は魔法だって本物だった。いまだってハリポタやファンタビは全くのお伽話だろなんてそんなナンセンスなことは思わないだろう。わたしたちは全くの架空の世界で繰り広げられる架空の物語に感動して涙したり腹を抱えて笑ったりあんまりに酷くて怒ったりと多分に影響を受けている。 かといってほうらポケモンはこの世界にもいたんだぞ、とかそういうなんの慰めにもならない囁きを奴らはしてこないのだ。

名探偵ピカチュウはなにもポケモンを信じてそこにポケモンがいるかのように、あるいは自身がポケモンになりきって保育園で幼稚園で公園で小学校で遊んでいたかつての、あるいはいま現在の子供たち(その中にわたしももちろん入っている)への慰めのような祝福ではない。

あれはこれからもこの世界にポケモンを存在させてやるからなという確固たる意志だ、あるいは挑発、挑戦状だ。あいつらはミュウツーを、我々がかつて涙した物語の中にいたミュウツーをこの2019年という時代に接続させやがった。よりによって実写という、もしかするとアニメ表現よりは現実に近しいかもしれない形の変えて。ポケモンGOすごいな〜とか言っている場合ではないかもしれない。

ところで人生の伴侶であるオーダイルはポスターのみでの出演でしたが相変わらずいかつい顔をしており最高だった。お前が一番だよ。

 

詩を読むという行為について アニメ「文豪とアルケミスト」第5話所感

■文アルについて

 DMMが配信している「文豪とアルケミスト (以下文アル)」というブラウザゲームがある。文学を世界から無くそうとする「浸蝕者」を、プレイヤーである「アルケミスト」が文豪を転生させて戦わせるシミュレーションゲームである。刀剣乱舞の後発ゲームであり、刀剣が文豪版になっただけと言えばそうである。

 その文アルがこの4月からアニメになり絶賛放送中だ。「浸蝕者」に侵された文学作品の中に、転生した文豪が入り込み敵と戦う、というのが大まかな流れである。文豪が見目麗しいイケメンとなり剣やら銃やらを振り回すことに眉をしかめる人もあるだろうし、己もまたそうであった。

 第1話ではその点について、転生した文豪は文豪のイメージから作り出された幻影のようなもの、と言及しており、そのイケメンとなった文豪と実際の文豪とを切り離すことに成功している。謂わば文アルのキャラクターは文豪(のイメージ)の擬人化である。

 刀剣とは違い文豪は生きていた人間である。それをゲーム、アニメのキャラクターとして消費することに躊躇いを覚えてしまうが、アニメにおいては文豪の擬人化であることを1話から提示し、物語、キャラクターに没入しやすくしている点は評価に値するだろう。おかげで私はまんまとはまった。ニコニコ動画では1話が無料配信されているので是非ご覧いただきたい。

 太宰治芥川龍之介を中心にして、1話では太宰治走れメロス』を、2、3話では坂口安吾桜の森の満開の下』を題材に物語が進んでいく。4,5話は萩原朔太郎『月に吠える』である。といっても4話はもし文学が世界から無くなったら、という話であり、実際に朔太郎が登場するのは5話である。この5話に大変感銘を受けたのでこうして筆を執ることにした。

 

■5話について 

 

  どこから犯人は逃走したか
  ああ いく年もいく年もまへから
  ここに倒れた椅子がある
  ここに兇器がある
  ここに屍體がある
  ここに血がある
  さうして靑ざめた五月の高窓にも
  おもひにしづんだ探偵のくらい顔と
  さびしい女の髪とがふるへて居る。

 

 この萩原朔太郎「干からびた犯罪」について、福永武彦は「どのような興味津々たる探偵小説を読んだ時よりも、この九行の詩句は私に多くの空想を語りかける」*1と語った。詩とは何だろうという問いに答えることは難しいが、この福永の言葉から詩とは空想を語りかけるもの、物語を創造するのだと学んだことを覚えている。

  アニメとは往々にして物語を有しているものだろう。小説もまたそうである。小説を元にしてアニメが作られることは珍しいことではない。文アルでもまた、1話においても、2、3話においても、(図書館から小説の世界に入る、という入れ子構造を取りつつ)小説のキャラクターになった文豪が、小説の筋を追っていくようにしてストーリーが展開されていた。

 では詩はどうか。詩がアニメに内包されるとき、その詩は、そのアニメは、どのような形になるのだろう、ということ対してひとつの答えが、この5話にあったように思う。

 5話で扱われた朔太郎の詩は「悲しい月夜」、「見しらぬ犬」、「干からびた犯罪」、「殺人事件」、「くさった蛤」、「贈物にそへて」、「竹」2編、「酒精中毒者の死」「地面の底の病氣の顔」等である。いくつかの詩は朔太郎によって朗読され、朗読劇を見ているのようなシーンもあったが、けしてそれだけには留まらない。

『月に吠える』に入り込んだ芥川、太宰たちは中原中也の死体を見つける。このシーンは「殺人事件」の「とおい空でぴすとるがなる」から、「干からびた犯罪」の「ここ倒れた椅子がある/ここに兇器がある/ここに屍體がある/ここに血がある」を踏まえたものだろう。ここからコミカルな推理パートが始まるわけだが、ある程度会話が進むと死体が別のキャラクターに入れ替わり、死体を発見するところから始まる。所謂ループものになるのである。その間に椅子、蛙、くさった蛤といった詩に関連する小道具が出現し、元の詩を連想させる仕組みになっている。

 芥川は死体のそばにある椅子に目をつけ、それにより殺人現場のループから脱出し、ようやく朔太郎と相見える。ここからが息をつかせぬ展開であり舌を巻いた。

「贈物にそへて」の朗読と共に舞台は麦畑に変わる。兵隊の姿をした「浸蝕者」と戦う文豪たちであるが、麦畑といえば「麥畑の一隅」であろう。「信仰からきたるものは/すべて幽霊のかたちで視える」とあり、続く路地裏での「酒精中毒者の死」朗読シーンにも出てくる「浸蝕者」がゾンビのような姿形をしているのはここから来ているのかもしれない。

 そして「竹」である。ここでは「竹」2編の朗読と共に、竹林で芥川と太宰が朔太郎と刃を交えるシーンである。芥川と太宰が落下し大きな顔の口に飲み込まれるのは「地面の底の病氣の顔」に拠るものか。

 このようにして『月に吠える』をベースとした世界観が構築されているが、前話までの小説の中に入り、小説のストーリーを追うという形にはなっていない。詩は小説のような明確なストーリーを持たない(と断言できるほど私は詩に通じていないのだが)。詩がストーリーを持つのは、それがひとに読まれ、そのひとがストーリーを作り出したときである。ここで詩を読んだ主体とは文豪とアルケミストそのもの、もうひとつは文豪とアルケミストに登場する萩原朔太郎だ。5話は詩を読むという行為が作品の外と内とで二重に織りなされていると言える。

 朔太郎の声優を務める野島健児による静かで、しかし力強い朗読は聞き惚れるものがあった。すでに発売中の朔太郎の朗読CDはここから視聴することができるが、これと比較してみると、アニメの朗読は文アルの朔太郎というキャラクターとして朗読されていることが分かるだろう。「キャラクター」が「詩」を「読んでいる」のである。ここには物語が生まれてくる。キャラクターとしての朔太郎が詩を読むことによって生まれる物語とは要するに5話である。それがどういった形で終わるのかという点についてはここでは触れない。問題はこの5話、作品の外側にある。

 好きな作品を使って他作品をこき下ろしたくはないのだが本当に作品を読んだのか? 作者について調べたのか? と言いたくなる作品がある中で、作品を元に物語が作られたということに感動を覚えてしまう。ゲームやアニメというものはけしてひとりによって作られるものではないから、ここでは製作委員会が文アルのアニメを作ったとしよう。

 アニメでは太宰と芥川のダブル主人公という印象を受けるが、この2人が「浸蝕者」から文学を守っていく中で、芥川の失われた記憶を取り戻していくというのが物語の最終的な目的地だろう。各文学作品はその通過点である。

 そして5話は『月に吠える』であった。詩を物語にするためにはまずその詩を読まねば始まらない。小説は読めばストーリーはおのずと知れてくるが、詩はそうではない。読むだけではその詩は理解できない。小説のように物語を受動的に享受することはできない。読み手はその詩に入り込まなければ詩を読むことにはならない。あるいはその詩を取り込み、咀嚼しなければその詩を読んだとは言えない。ただ言葉を追うだけでは文字を追っているだけに過ぎない。

 この一連の能動的な行為こそが詩を読むということではないか。そしてこの行為によって生み出されたものが5話なのではないか。私は文豪とアルケミストという物語をきっかけにして『月に吠える』が読まれた結果、5話が生まれたと思いたい。詩を読むということは、とても独創性に富んだ、詩と読者(ここでは朔太郎の詩と製作委員会)の相互の営みであり、それがアニメという形になったものが5話だったと思いたいのである。詩を読むということは物語を創造することなのではないか、と私にひとつの考えをもたらしてくれたのがこの5話だった。

 

 ところでストーリーの話をすると、それまで「浸蝕者」が明確な敵として立ち現れていたが、5話では「浸蝕者」が文豪(ここでは朔太郎である)と結託して作品を消そうする。ある意味でタスクのように「浸蝕者」と戦っていくものとばかり考えていたので、このような捻りを入れられると今後の展開に期待せざるを得ない。ニコニコ動画では最新話が無料配信されているので、こちらも是非ご覧いただきたい。6話も楽しみである。まだ5話なのだが2期もやってほしいものだ。欲を言えば敬愛する福永武彦(とその親友中村真一郎)を実装してほしい。
 

*1:萩原朔太郎詩集」(「本の手帳」昭和37年5月号)